船場吉兆もあほやなぁ。
「
魯山人著作集〈第3巻〉料理論集」位 読んどらんのかぃな。
読んどったら、言い訳の一つにでも使えたやろぅに。
少々長いが、勝手に引用させてもらいます。
○
星丘時代、残肴を見て感あり、料理人一同に留意を促すゆえんを述べた
ことがある。
料理を出して、お客のところから残ってきたものを、他ではどんな
ふうに始末しているかわたしは知らない。わたしならその残肴を、
お客がぜんぜん手をつけなかったもの、つけてもまだたくさん残って
いるもの、刺身は刺身、焼き魚は焼き魚というふうに整理し区分けし
て、これを生かすことを考える。こういうことは以前からしばしば
みんなに話はしたものの、億劫がって実現されたためしがなかった。
昔の料理人というのは、安っぽい人間が実に多くて、残肴の処理などと
いえば、いかにもケチな話のように聞き、真剣には耳を貸さないようで
あった。
米一粒でさえ用を完う(まっとう)しないで、捨て去ってしまうのは
もったいない。雀にやるとか、魚にやるとか、糊をこしらえるとか、
工夫するのも料理人の心がくべきことだと思う。
そんなことをいうのは、人間が古いと感ずるらしい。一椀の飯でも
意味なく捨て去ってしまうことは許されない。用あるものは、こと
ごとくその用を使い果たすところに天命があるのだと思う。
昨夜も遅くまで来客があった。当然残肴が出たわけだが、今朝ひょいと
芥溜(ごみため)をのぞくと、堀川牛蒡(ほりかわごぼう)その他が
そっくりそのまま捨ててある。せっかく苦労して、うまくこしらえた
高級やさいである。たいていの魚よりはよほど珍しく、珍重に値する
京都牛蒡が捨て去られてしまっている。女中に注意深い者でもいれば、
こんなことはしなかったであろうに。料理人たるもの、いかに若いとは
いえ、このようなことに無頓着であってはいけない。
堀川牛蒡というものは、茶味があり雅味がある。その上、口の中に
カスが残らないという特徴をもっている。見かけが素人好みの美しさで
ないために、お客によっては、どんなにうまいものか知らないで、
手をつけない場合もある。いったん客席に出されたものとはいい条、
まるきり手をつけないまんま捨て去ったりしないで、後から賞味する
くらいの道楽気があってほしいものだ。
残肴には見るに忍びないほど傷められてくるものがあるが、多数の
来客のある忙しい日になると、ぜんぜん手のつかないものも多くなっ
てくる。
もし、料理人に心があったら、たとえごぼうの一片にしても、うまく
処理して、まったく別の珍味として食べることを考えるべきだろう。
残らず捨て去ってしまったり、珍味だということをなんにも知らない
輩に、むしゃむしゃ食べさせてしまうのはもったいないかぎりである。
あまだいの骨一つにしても、犬にやるとか、残飯を干飯にするとか、
方法はいくらでもあろう。
料理人はせっかく手がけたものが充分食べられなかったり、手がつけ
られなかったりした場合は、もう一ぺんこれを生かして、自分達の味覚
研究として、試食するくらいの機転がなくてはならない。
経済的にいっても、もとよりの話であるが、料理人は料理で身すぎを
する人間だ。いい材料を使って、手塩にかけたものが客の腹加減から
用を足さないで戻ってきた場合、またもう一度これを生かす工夫に
心して、自分たちの同僚のもので、試食研修してみるくらいの興味を
持たなくては失格である。料理人は料理で僅少な金を得る生活よりも、
ひたすら料理に興味を持ち続けることの方が幸福ではなかろうか。
繁忙の時でなければ残肴の姿は見えない。残肴が姿を出すような忙しい
時は、料理人は疲労した上、残肴の整理など大変だと事務的に考えがち
のものだが、生かさずにおれないという生一本の性根がほしい。好きの
道だからこそ、ここが大切なのだ。心の底から料理が好きという人間
なら、これくらいのことは良識、良心の両杖で実行できるものである。
残肴の活用はわたしのいささか得意とするところであるためだろう、
くどくどというが、諸君の中には家庭をもったひともいる。残肴の
揚げものの はぜ二・三片でもいい、家に持って帰れば、家庭がどん
なに喜ぶか知れない。あまだいの大きな照焼きの残ったものなど、
菜っ葉や豆腐といっしょに煮て食べるといったように、一家を楽園に
する道もある。
なるほどと得心がゆけば、常に残肴の係などの責任者をつくり、真剣に
与えられた材料をなんとか生かして欲しい。ものの働きがあるうちは
充分に働かせ、その効用をせいぜい能率的にこの世に残してゆく。
料理人にかぎらず、このことは人生に処する人間の心がけでなくては
ならないと思う。また、こういうところから、料理の発明も発見も
生ずるのである。
(昭和十年)